1998年の秋、75歳の父はだるさと微熱を訴えて、検査入院。一週間後の手術で、内臓のほとんどに転移した胆のうガンだということがわかった。
 本人には「悪いところは全部とりました」と告げられ、父は見舞いに来る人に「命拾いしたよ」と言って、ニコニコしていた。
 家族には、あと数ヶ月だと伝えられた。

 年末に四国へ帰省した私に、父は言った。
 「もう“十年日記”は無理だと思うから、“三年日記”を買ってきてほしいのだが」 父は何十年も農業日誌として十年日記をつけていた。
 「わかった、すぐに買って来るね」
 夫とあちこちの書店をさがして、大き目の手ざわりのいいものを選んだ。帰りの車の中で開いてみる。再来年の2000年1月1日は土曜日。
 ここへ父は何か書くことができるだろうか。そう思うとふっと字がぼやけた。 

 「オオ、これは書きやすそうだ。前のよりずっといい」
 ベッドに起き上がった父は、ページをパラパラとめくりながら、うれしそうだった。

 1月半ば、体調は次第に悪くなり、食べ物をすべてもどすようになった。手術が成功したと思い込んでいる父はいらだった。主治医を信じられず不安で、母に「この身体がどうなっているのか、きちんと聞いてほしい」と何度も怒るのだと、電話で母が哀しげに言う。

 私は物心ついた頃から、死についてよく考える子だったと思う。いつか、それは、終末期のケアにも及んだ。その人の人生なのだから、命に限りがわかればそれを告げるのが、その人の人権を尊重していることではないかと、思ってきた。「最期の時間」をどう過ごすかはその人が決めるべきことではないか、とも思っているので。
 議論の多い問題ではあるが、少なくとも私自身は、
そうしてほしいと思っている。

 
            今、どうしてあげることが
            一番父にとって望ましいことなのか。
               何日も何日も考えた。





 私はある“つて”から「全国緩和ケア学会」に名を連ねている四国の公立病院を探し当てた。幸運なことに、そこは実家からそれほど遠くなかった。
 私はすぐに電話をした。4、5日後の土曜日の午後の1時間、緩和ケアに熱心に取り組むS医師が時間を割いてくださることになった。
 はやる胸を抑えて、帰省。

 父のいる病室は、狭い6人部屋。担当医師は回診に来ても、父とまともに目を合わさなくなっていた。回復していく患者には大きな声で「よかったですなぁ」と声をかけていた。「放っておかれている」と、感じる父のやるせなさが痛いほど感じられた。薄いカーテンを引いて、隣の人を気にしながら、父の耳もとに寄る。

 「おとうちゃん。ずっとこの病院にいたいと思ってる?」
 ハッとする父。
 「いや、わしはもうここに一日もいたくはない。転院したいとずっと思ってきたが、そんなこと、ほんとにできるのか」
 田舎のことゆえ、転院はほとんど例のないことらしかった。
 
 私はS医師のことを話し、もし父が本気で転院したいのなら、これから会ってくるつもりだと伝えた。
 瞬間、父の顔がくっとゆがんだ。
 
 「ほんとうか? それは。本当に転院できるのか?」

 父は私の手を握り締め、ありがとう、と何度も言った。
 あの頑固一徹だった父が泣いている。納得のいく時間と治療を父に、という熱い思いが込み上げてきた。


  1999年、1月末に転院。
 「あの先生はいい人だ。忙しいだろうのに、毎朝ここの椅子に座って診察してくれる」と父が喜んだ。
 そんなある日、S医師は言った。
 「何か、ご自分の病気について、お知りになりたいことがありますか?」
 「ハイ、先生。わしの身体はどうなっているのですか。わかるように話してください。うちに帰ってやっておきたいこともあります」
 「わかりました。明日、面談室でお話いたしましょう」

 翌日、S医師は父の身体をくわしく図解し、むずかしい説明は紙面に書いてくれた。母には、後でこう言った。
 「おそらく今年の桜は、ないでしょう」
 




 自分に時間があまりないことを父は知った。S医師は「何度でもお宅にお帰りなさい」と、体調を整えてくれた。果樹畑のことなどをあれこれ算段した日の夕方、震える足元で西の裏山を長い間見ていたそうだ。
 段の多い狭い田をみかんの畑に変え、それから桃を植えた、その山。
 父の足が踏みしめ、汗がいくつも落ちた畑を。
 
 3月に入ってやっと個室に移れたある夜のこと。もうほとんど眠ってばかりだった父がめずらしく目を開けていた。父と母二人だけの静かな夜だった。
 「おとうちゃん、足だるい? さすろうか」 
  小柄な母がベッドに上がった。
  「そうや、何か歌でも歌おうか」
  そういったものの、母はその時『赤木の子守唄』しか思いつかなかった。
 
           ♪泣くな よしよし 
            ねんねしな。♪

 

 ぼんやりと薄い意識で聞いていた父が言った。
 「わし、それよう知らんので、歌えんわ」
 「じゃ、どんな歌なら歌えるの?」
 
「ポッポッポー、はとポッポー、豆がほしいか、そらやるぞ」

 2日後、父、永眠。
 葬儀の後、その夜のことを話しながら
 「おかしいでしょ」と、母は泣き笑いをした。
      
             いい話だな。
            そう思った。
 
 
 残される母や家族への配慮、とりみだすことのなかった最期は誇らしく、そう思えることは娘として幸せだった。
「残された時間を一生懸命に生きている。泰然自若として立派だと思う。尊敬しているの」と言った私のことばを母が伝えると、父はてれくさそうに、フッと頬を緩めたそうだ。

 戦争で満州へ行った父。
 マラリアで苦しんだ父。
 農家の3男だったので、養子に来た父。
 里山のやせた小さな田畑を耕し、50年以上もここで、暮らしてきた父。
 父と母が丹精して送ってくれる桃や柿、筍、そしてお米は最高だった。

 
 父のことが終わっても、私の体調はなかなかもどらなかった。私の中で後悔はないのに、精神的にまいっていた。人の命の重さを実感した。

          何かをしなければ
         ここから抜け出せない
         そんな気がしていた。




 
Yoko からの手紙を思い出していた。

   

  「8月には、もう日本へ帰ろうと思っています……」
 
 
 




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