POLICE OFFICE
(警察署)
Marble Arch へ着いて、見慣れたそのアーチや駅や、まわりの店を見たらホッとした。迷わず、最初に目に入った大きなホテルへ入った。
警察はどこにありますか?
ああ、大丈夫ですよ、マダム。その道をこう行って右に曲がって、20メートルほどのところにありますよ。
何が大丈夫ですよ、だ。
やっぱりすぐにはわからなかった。サインも看板もなくて、外からはほんとにわかりづらいのだ。日本のみたいに大きく看板に書いといてくれ。駆け込む人が、これじゃ通りすぎちまうョ。
中に入る前に手鏡をのぞく。あんまりひどい顔では日本人としての“沽券”にかかわるし、すりへってはいるけど、若干のプライドもそこそこ残っている。
ロンドン中心街の Marble Arch の警察署、これがまたウソみたいに小さなオフィス。女性警察官を相手に、若い男性が、いいかい、おれぁ、買ったばかりの大事なレザージャケットを忘れてきちまったんだ。○○に電話してくれ、みたいなことを大げさな身振り手振りで、踊るようにまくし立てている。髪の毛を500本以上に細かく編んで垂らしていてこれが褐色の肌によく似合う。その髪は、彼がものを言いながら頭を前後左右に振るのでジャラジャラ揺れる。
この Young guy の長い指やしぐさ、声を私はいつまでも忘れられないだろう、と思いながら、ぼんやり見ていた。
数人が2列に並んでいる。誰もみな無口で、ブッチョーズラ。ここまで来たら、早くしてほしいような、あんまり早くしてくれなくてもいいような、気分。
あの女性警官だといいんだけど、と気弱くも思いながら、待つこと15分ほど。
「Next, どうしたのですか」と私の前に来たのは、黒人の30代くらいの男性警官。
ハァ。あなたですか。しかたない。実は・・・と話し出す。私の英語は(決して謙遜ではなく)大したことはない。
しかし、 Police Officer に話し始めた『この瞬間』から、フツーの Travel English が、Survival English モードに切り替わった。
必死になって説明しなければならなかったし、まちがいを気にしたり、カッコいい英語を、なんてきどってる場合ではなかったから。そばの人の耳も意識しなかった。落ち着いて落ち着いて、と言い聞かせながら、順序を追って話す。
私が英会話を、ケッコウ本気で何年も勉強してきたのは、『今、この時』のためだった、とすら思えた。不安が徐々に消えていき、何とかできるぞ、という力が湧いてくるのを覚える。
大きな鋭い目で黙ってうなづきながら、私の話を聞いていた彼が、口を開いた最初の言葉。
「マダム、あなたが今日のお昼まで、お金やカードが入った茶色のバッグを持っていて、それをすられたか、落としたかして、今それを持っていないという証拠はありますか」
何イッテンダイ。んなもん、あるわけないじゃないか、と思いながら、
「証拠はありません。でも本当です。信じてもらうしかありません」
(ったく、誰がうそを並べにこんなところへ来るんだョ、
と思ったのは、かなり後になってからのこと、で)
じっと目と目を見合わせて数秒。ここで、ヨヨと泣けばいいのかい?
OK. こちらの部屋へ・・・と右手のドアをあごでしゃくる。よかった、という安心感で、この人は『ダイハード・1』に出たドーナツの大好きな、あの黒人警官を10キロばかり、ダイエットさせたらこんな感じだよ、と思ったりしてしまう。
どこで、気がついたか、どこの国から来たのか、連れはいないのか、どこに宿泊しているか、宿泊先の人とはどうして知り合ったか、これからのお金はどうするつもりか、パスポートのコピーを持っているか、とかいろいろと聞かれて、結局、彼は Report(紛失証明書) を書いてくれた。彼は誠実に「仕事」をやってくれた。そして、日本大使館に電話をかけて、何時から何時までに行けばいいか、ということまで確認してくれた。
いいですか、これを持って明日、日本大使館へ行きなさい。まだかなり London にいるのなら、“仮”でないパスポートがもらえるでしょう。大使館は2時で閉まりますから、それまでに行くように。場所は知っていますか?
いいえ。
Piccadilly にあります。地下鉄の Green Park で下りて、右へ行くとすぐわかりますよ。 気をつけて。
ハイ。 Thank you.
なが〜い一日が終わった。もう5時だ。ペットボトルの底の方に残った水を一口飲んで、痛みかけた右足を引きずるようにしながら、Mercia の家をめざす。
もうすぐだ、と思ったころ、ある家から道に出て来たベレー帽をかぶった初老の男性が、車にキーを差し込みながら、ちら、と私を見た。車のドアを開けながら、もう一度私を見た。とがめるように見返すと、彼はふっと私に微笑んだ。私にはまだわからない。こんなに人を見るのは、イギリス人には少ないからだ。
彼は、「Oh、私はあなたのことをすっかり忘れて出かけるところでしたよ」とかなんとかボソボソ言いながら、先に立って、フラットのドアのカギを開けた。そのドアを見て、やっと私は思い出した。
この人は Colin だ。私も彼の顔をすっかり忘れていた。今朝会った時は、ガウンを着ていて、髪の毛が薄い人くらいしか覚えていなかったのに、今、彼はしゃれた臙脂色のベレー帽、襟元には赤いスカーフなどのぞかせて、ジャケットを着て、まさに英国紳士なんだもの。
ありがと。Colin.
このあたりは観光地ではなく住宅地なのだ。だからいわゆる白人以外はあまり通らないので、 Colin は私を思い出したそうだ。のちに訳を書くが、Colin がドアを開けてくれた、これが「ここのつ目のラッキー」になった。
Mercia がもうすぐ帰ってくるよ。僕は遅くなるけどね。
あ、電話をお借りしたいのですが。
どうぞ。場所はわかりますね。
電話をかけてクレジットカードをストップ。 これで、よし。
ここでヒトツ、白状します。
私は旅に出て、我が家へ電話をかけたことはなかった。しかし、人生最大のピンチに遭遇したこと、この家に誰もいない解放感、今日やるべきことはやったという安心感で、ふと、自宅にコレクトコールをかけてみたりしちゃッたのだ。日本が夜中の3時ごろだ、とはわかっていたが。
二階の息子の部屋に子機があったっけ。
ルルル・・・ 受話器を取る音。
もしもし・・・ (眠そうな息子の声)
私 もしもし、おかあさんです。こんな夜中に、ごめんね。
息子 ああ、いいよ。(やさしいなぁ。ここでちょっと沈黙)
私 ・・・・・
息子 どうした、元気で楽しんでいる?
私 ウン、みんなは元気?遅刻せずに会社行ってる?
息子 うん、何とかやってるョ。
私 そう・・・。じゃ、みんなに元気だからって伝えてね。
自分の部屋へ入って、バッグをベッドに置こうとして、
あらっ。
今朝出かける前に、Mercia に渡そうと財布から出した£180が折りたたんでベッドのふちにころがっている。
わぁ、よかったぁ。ここに忘れて行ったんだ。
これが「ラッキーの10番目」。
冷えている体、こわばった心。とりあえず温まろう。熱いお湯のシャワーを浴び、バスタブで足をもみほぐしながら、マッサージ。
今日は一体、何万歩あるいたかしら。
足よ、おまえは偉かった。
バスローブ姿でキチンへ上がり、熱いアールグレイの紅茶を入れる。カップは、お気に入りのイチゴ模様のマグ。部屋から持ってきたリンゴとビスケット、ロールパンを食べる。ロンドンの真中のこの家に私は一人。
2杯目の紅茶のカップを手に、
この時、何を考えていたのか・・・
もう思い出せない。
食器を洗って部屋へもどる。少し寒いのでベッドにもぐりこむ。
MMercia のうちの私のベッドルーム。右手は私の荷物を置いたもう一つのベッド。
このベッドカバーの模様がとても好きでした。じゅうたんはフッカフカ。
このベッドカバーの模様はとても素敵で面白い。(毎日、この上に寝転んで書いたり、読んだり、電話をしたりしたので、とうとう私はこれと同じ模様のピロケースを、帰国前に自分のために一枚だけ買った。1枚しか買えなかった。Oxford 通りのデパートの寝具売り場で同じ模様のを見つけた時は、感動ものだった。Jane Churchill というブランドらしいけど、知ってる?)
2つの枕を背に当て、何かのパンフレットの裏に「明日すること」をメモ。ガイドブックで大使館の場所と、地下鉄を確認していたら、いつのまにか、イシキフメイ。
フッと、目がさめた。一瞬「ここはどこ?私は誰?」。腕時計を見ると明け方の4時前。あら、スタンドをつけたまま寝ちゃったんだ。だんだん、記憶がもどってくる。
「ひょっとして、昨日のことは悪夢で、この部屋の中にウェストバッグを忘れて行って、もう一度よくよくさがしてみたら、何だ、あったわ。よかった、って笑い話にならないかしら」
私は、ほんとに起きだして、その辺のものをまさぐった。
しかし。
夢ではなかった。
こんなとき、ドラマ「北の国から」の純なら、多分こんなセリフ。
「昨日のことなど、思い出したくもなかった。しかし、それは…ほんとうにあったことだ」
それからまたうとうとして、しっかり目が覚めたら朝の7時だった。
外は晴れ。
Mercia に昨日渡し忘れたことを謝って、このお金を渡そう。もちろん、彼女に『バッグ紛失事件』は秘密にするつもり。
トラベラーズチェックを止める手続きも、(昨日は電話がつながってもちょっとお待ちください、と言われた後、音楽が鳴り続け、待っている間に切れてしまうことが数回続いたのであきらめたから)、今日はもう一度トライ。
朝食の後、どこかでこの4万円弱をポンドに両替すれば、しばらくの間のお昼と夕食は何とかなる。
今日は日本大使館へ行かねばならぬ。