公園 街の財産としての・・・
西洋文明の色濃い地域、つまりヨーロッパとか、アメリカなどを旅していつも深く感銘を受けることの一つに、大きなパーク、公園がある。
どんなに大きな都市でも、というかその町が大きければ大きいほど、そこに占める公園の面積は広く、数も多くなるという印象を受ける。高い木々、どこまでも広い芝生、池。
人々は、
ゆっくりと散策を楽しみ
あるいは寝転んで、読書
スケートボードの若者たち
日光浴
お昼寝
犬たちとお散歩
ジョギング
スケーターたち
友達同士数人の語らい
親子連れのひととき
赤ん坊のよちよち歩きの練習も、ここで
恋人たちの際限のないおしゃべりと、沈黙と、膝枕
パンをかじりながら、テスト勉強の学生
だれが何をしていようと、だぁれも気にしない。そばにいる人をジロジロ見ない。だれでもが思い思いの好きな場所に座ったら、そこはもうその人だけの居場所。
いたければ一日だっていていい。居心地のよいさわやかな風の吹きぬける空間、広場。むだなベンチや、物売りや、けばけばしい色は、公園の中にはない。ほとんど自然のままに芝生だけがどこまでも広い。
気の遠くなるようなこの広さのぜいたくさ。こういうところでなら、ちょっと哲学でも、というのもあながち不似合いではないかも。
この風景は、残念ながら日本にはほとんどないといってよいだろう。
(好みの問題だろうが、いわゆる日本庭園というのがちょい、苦手)
何か書いたり、アイスクリームを食べたり、ちょっと座ってさりげなく人々を見たり、のびやかにくつろぐ人たちに溶け込みたくて、私は公園に行く。
ハイドパークでくつろぐ人々。右手前には裸で日光浴をする男性も。私は寒いくらいだったんですけど。
このとてつもなくひろーい公園が、自分の住む町にあるということだけで、人はどれほど気もちがゆったりとできることか。これこそ「ほんとの豊かさ」ということだ、と思う。
ゆとり、おおらかさ、「個」を大切にする、人と違うことをあたりまえとして受け入れる文化がこうしたものをつくり、多分そこから、あの文化が生まれてくるのだろう。
人がどういう空間で心を解き放つことができるかを、研究、追求していなくては作れない空間と広さと木々の配置。それに調和する町並みも当然、考慮されていて、しっくりとなんとも美しい。
ロンドンにいる間、私は何度となくハイドパークを歩いた。この時はだれかがいるといいなぁ、とちょっと気分もたそがれながら。
Yokoのフラットのすぐ近くのクィーンズパークでは、チョロチョロと走り回るリスにピーナッツを与えて楽しんだ。
バッキンガム宮殿のそばのグリーンパークでは、ブィーンブィーンと、すごいスピードで走リ回る芝刈り車に出くわした。フーム、あれでなきゃぁ、この膨大な芝生は刈れないよ、ネ。
時は6月、見上げれば楓の木々、まだ若い大きな「葉っぱのフレディ」たちが風にそよいでいた。落ちた葉っぱをいくつか拾って手のひらに乗せてみた。
昨年、映画「ノッティングヒルの恋人」に出てきた、住宅街の裏にある長い公園というか、共同管理公園のようなところ。
見たとき、あっと思った。これは Mercia のフラットの前にあったのとそっくりだ。普段はぐるりに柵があって入れないが、近所で小さなガーデンパーティなどがある時などには開放されて、地域の人たちが集まって楽しむらしい。
順番制の幹事になった Mercia は、近く開かれるサマーガーデンパーティのお知らせビラを印刷して、漏れがないように配ったり、食べ物を手配したり、となかなか大変らしかったっけ。
モンタギュースクエアガーデンパーティのおしらせちらし。チケットは大人£10。
子どもは12歳まで£5。それに食べ物も飲み物も含まれている。
この地域の人でないと参加できません。
下から5行目に 世話人 Mercia Dexter という字が見える。
あの映画は、私にそんなロンドンを再び思い出させてくれた。
最後の場面、ヒュー・グラントとジュリア・ロバーツがそのグリーン地帯の中のベンチでのんびりと本を読んだり、走り回る子どもたちを見ているシーンがあったが、そうなの。こういう緑の裏公園のようなところって多いんだわ。
密集した住宅地にも小さな配慮がある。この映画のことを誰かに話したくてたまらなくて、Mercia への手紙に書いた。
こんな公園のある町に
憧れる。
背景にあるのは、文化?
人間観?
緑の人間への心理効果を熟知した
あかし?
それとも、憩う、ということへの
こだわり?