紙製の Weekly travel card は、使うたびにポケットから出し入れするので、もうよれよれしてきている。改札口の機械に入れると、ピシッとしていないので、機械が読み取れず、ピピッと鳴って返ってくるようになった。
2日目からは脇に立っている駅員に見せて、別の通路から出たり入ったりすることになった。駅員はカードのしわを指で伸ばしながら、「もっとていねいに扱わないと、読み取れません」。
そうじゃなくて、これを買った人は最低1週間、毎日、何度も使うのだから、もっと上質で硬めのポリかなんかでコーティングしてよ、と私は言いたい。
構内を出て、横断歩道を渡る。
「川が見えてきたぞ。あ、晴れてきた、やっぱ私は晴れ女だね」なんて思いながら、チケット売り場が近づいたので、財布を出そうとウェストバッグに手を伸ばす。
あれ? あ、そうそう、さっき、トイレで外して、バックパックに入れたんだったよ。背中からバッグを下ろしたら、軽い。見ると、ファスナーがパカンと開いている。
「あら、ま?」
中をのぞく。
使い慣れた茶色のウェストバッグが、ない。
「うっそぉ」
一瞬「コレハ、ナンダ」と思った。あたりを見回した。どこかへ落とした? もう一度バッグをのぞく。中に見えるのは折り畳みの傘、ガイドブック2冊、小さなメイクアップポーチ、ペットボトルの水、底の方の紐につけた
Mercia の家のカギ。
川岸の柵にもたれて、自分の手の平を見る。開いた指の指紋を見る。起こったことの意味がしっかりとわかるまで、しばらく時間が必要だった。
大きく息をつく。「試練だ」と思った。
さぁ、これこそ「どぉする?」の場面だよ。
映画ならここで、、泡吹いてぶっ倒れて、
泣き叫ぶ場面が“想像のシーン”で出るだろう。
空を仰ぐ。
これって、私のこの素敵な旅に、あり、だったわけ?
ねぇ、神様。
私が、もう一人の私に言う。
「あんたはこの何年か、英会話を勉強してきた。旅に出て、何かあった時にでも何とかできるっていう自信が、少しだけどできたから、こうして出かけてきたんじゃないか。これこそ、あんたが普段言ってることがほんものかどうか試される時だ。
しっかりしなさいよ。あんたは、よく子どもたちに言ってきた。“起きたことはもう取り返せないし、もどらない。それをいつまでも、ああしたらこんなことにはならなかったのに、とかこうすればよかったとか、『たら、れば』を繰り返すのでなくて、これからそれにどう対処するか、でその人のほんとの価値が決まるのだ”とね。その言葉がほんものかどうか、今試されているんだよ」
でも、落としたかもしれないじゃない、と地下鉄の駅にもどりながら、おなかのあたりがすぅっと冷えてくる。どきどきする胸の鼓動は、人にも聞こえそう。
下を向いて、さがしながら、思っている。
「あるわけ、ないんだよね」
さっきの駅員に「落し物は?」と尋ねると、届いていないと言う。すぐ納得。
万が一、誰かが拾って届けてくれたら、いずれ Baker Street の Lost Property
(忘れ物、拾得物センター)に集まるのだという。
「日本にいる時、ガイドブックでおさらいしたね、『もしもの時』のことを。こんな時は、まず警察に行く。そして、Police
Report (盗難・紛失証明書)を書いてもらう。それを日本大使館、総領事部へ持って行かなければ
パスポートは再発行してもらえないんだよ」
そうなのだ。私はパスポート、現金(アルバイトでコツコツ貯めた)の入った財布、トラベラーズチェック、日記用ノート、ボールペン、クレジットカード、娘が車で空港バスの停留所まで送ってくれる間に写したポラロイド写真と手紙、目薬、つめやすり、スーツケースの合いカギ、KDDスーパーカード(海外へかけられるテレフォンカード)、そういう“海外旅行では命の次に大事なもの”の一切合財が入ったウェストバッグを、なくしてしまったのだった。
どう考えても落としたとは思えなかった。
これまでの生涯で最大のピンチだ。
だれかれに警察はどこにありますか、を繰り返した。誰もが親切にあっちの方にあったと思うとか、こちらだとか教えてくれたが、残念ながら多分、だれも正確には知らなかったのだ。同じ道を行ったり来たりしているように思えてきた。
歩きながら、呪文のように繰り返していたことば。
それは時実新子さんの川柳、
『私には 私の道の まっくらがり』
また、細い雨が降り出した。肌寒くなってきた。さっきから、私は一体どれくらい歩いたのだろう。ふっと道端に座り込んで、“穴を掘りたい”ような気になった。しかし、今それをしたら、際限なく掘って、私はもうその穴から這い上がっては来られないだろう。
疲れたんだ、休もう。休むのだって素敵な場所がいい。花屋さんの店先の壁によりかかった。水を一口飲んで時計を見ると、もう3時を過ぎている。
お昼を食べた後でよかった。おなかは大丈夫だ。