っそぉ





 6月2日に行ったのはセントポールズ大聖堂。ここは実にすばらしかった。あの全体の雰囲気が好き。荘厳で、圧倒される。私はこういう寺院では、近づいたり、少し離れて見たり、斜めから、横からと角度を変えて鑑賞する。映像で見るように屋根の上の方からも見られたら最高なのに。手に持ったガイドブックとにらめっこ。
 そうか、私は今、こんなに歴史的に有名なトコロへ来ているのだ、という想いで、ブルブルッと武者震いもする。

 地下聖堂で、有名な画家や作家の記念碑を見る。展望台は、あきらめた。小雨がぱらついてきたし、もうお昼だった。
 通りの屋台で、胚芽米などの入ったブラウンのサンドイッチとミルクのパックを買って、聖堂の庭の隅のベンチに腰をおろして食べた。おいしいものは一人で食べてもおいしいものだ。

 私は「パン大好き人間」で、毎日ずうっとパンでも、ちっともかまわない人なのだ。海外旅行に、日本の食べ物を持って行ったことはないし、恋しくなったこともない。
 その地では、その地のものを食す、
When in Rome, do as the Romans do.
(郷に入っては郷に従え)
というのが、私のささやかな旅の『ポリシー』

     
 ベンチの前に、アガパンサスのような、
         ポワンとした紫の花がいくつも咲いていた。
           ロンドンも5日目、心も体もすっかり旅モード。


 
 さて、テムズ川の遊覧船に乗ろう、と地下鉄に乗り込む。着いたのは地下鉄の Embankment 。薄暗い地下鉄の通路からエスカレーターを上がって、改札を出る。


 とうとう乗れなかった、テムズ川の遊覧船。 今度行ったらきっと乗るんだ。


紙製の Weekly travel card は、使うたびにポケットから出し入れするので、もうよれよれしてきている。改札口の機械に入れると、ピシッとしていないので、機械が読み取れず、ピピッと鳴って返ってくるようになった。
 2日目からは脇に立っている駅員に見せて、別の通路から出たり入ったりすることになった。駅員はカードのしわを指で伸ばしながら、「もっとていねいに扱わないと、読み取れません」。

 そうじゃなくて、これを買った人は最低1週間、毎日、何度も使うのだから、もっと上質で硬めのポリかなんかでコーティングしてよ、と私は言いたい。
 構内を出て、横断歩道を渡る。
 「川が見えてきたぞ。あ、晴れてきた、やっぱ私は晴れ女だね」なんて思いながら、チケット売り場が近づいたので、財布を出そうとウェストバッグに手を伸ばす。

 あれ? あ、そうそう、さっき、トイレで外して、バックパックに入れたんだったよ。背中からバッグを下ろしたら、軽い。見ると、ファスナーがパカンと開いている。

           
 「あら、ま?」 
               中をのぞく。

       使い慣れた茶色のウェストバッグが、ない。

          
  「うっそぉ」 

 
 一瞬
「コレハ、ナンダ」と思った。あたりを見回した。どこかへ落とした? もう一度バッグをのぞく。中に見えるのは折り畳みの傘、ガイドブック2冊、小さなメイクアップポーチ、ペットボトルの水、底の方の紐につけた Mercia の家のカギ。
 川岸の柵にもたれて、自分の手の平を見る。開いた指の指紋を見る。起こったことの意味がしっかりとわかるまで、しばらく時間が必要だった。

    
 大きく息をつく。「試練だ」と思った。
       さぁ、これこそ「どぉする?」の場面だよ。
         映画ならここで、、泡吹いてぶっ倒れて、
           泣き叫ぶ場面が“想像のシーン”で出るだろう。




 
                  空を仰ぐ。

     
これって、私のこの素敵な旅に、あり、だったわけ? 
 
               
ねぇ、神様。


 私が、もう一人の私に言う。
 
「あんたはこの何年か、英会話を勉強してきた。旅に出て、何かあった時にでも何とかできるっていう自信が、少しだけどできたから、こうして出かけてきたんじゃないか。これこそ、あんたが普段言ってることがほんものかどうか試される時だ。
 しっかりしなさいよ。あんたは、よく子どもたちに言ってきた。“起きたことはもう取り返せないし、もどらない。それをいつまでも、ああしたらこんなことにはならなかったのに、とかこうすればよかったとか、『たら、れば』を繰り返すのでなくて、これからそれにどう対処するか、でその人のほんとの価値が決まるのだ”とね。その言葉がほんものかどうか、今試されているんだよ」


 でも、落としたかもしれないじゃない、と地下鉄の駅にもどりながら、おなかのあたりがすぅっと冷えてくる。どきどきする胸の鼓動は、人にも聞こえそう。
 下を向いて、さがしながら、思っている。
 

           
「あるわけ、ないんだよね」
 
 さっきの駅員に「落し物は?」と尋ねると、届いていないと言う。すぐ納得。
 万が一、誰かが拾って届けてくれたら、いずれ Baker Street の Lost Property
(忘れ物、拾得物センター)に集まるのだという。

 「日本にいる時、ガイドブックでおさらいしたね、『もしもの時』のことを。こんな時は、まず警察に行く。そして、Police Report (盗難・紛失証明書)を書いてもらう。それを日本大使館、総領事部へ持って行かなければ
パスポートは再発行してもらえないんだよ」

 そうなのだ。私は
パスポート、現金(アルバイトでコツコツ貯めた)の入った財布、トラベラーズチェック、日記用ノート、ボールペン、クレジットカード、娘が車で空港バスの停留所まで送ってくれる間に写したポラロイド写真と手紙、目薬、つめやすり、スーツケースの合いカギ、KDDスーパーカード(海外へかけられるテレフォンカード)、そういう海外旅行では命の次に大事なものの一切合財が入ったウェストバッグを、なくしてしまったのだった。

  どう考えても落としたとは思えなかった。

  これまでの生涯で最大のピンチだ。

 だれかれに警察はどこにありますか、を繰り返した。誰もが親切にあっちの方にあったと思うとか、こちらだとか教えてくれたが、残念ながら多分、だれも正確には知らなかったのだ。同じ道を行ったり来たりしているように思えてきた。


 歩きながら、呪文のように繰り返していたことば。
       それは時実新子さんの川柳、
 
        
『私には 私の道の まっくらがり』


 また、細い雨が降り出した。肌寒くなってきた。さっきから、私は一体どれくらい歩いたのだろう。ふっと道端に座り込んで、“穴を掘りたい”ような気になった。しかし、今それをしたら、際限なく掘って、私はもうその穴から這い上がっては来られないだろう。
 疲れたんだ、休もう。休むのだって素敵な場所がいい。花屋さんの店先の壁によりかかった。水を一口飲んで時計を見ると、もう3時を過ぎている。
 お昼を食べた後でよかった。おなかは大丈夫だ。


町にあふれるほどの花屋さんの店先で見つけた、緑色のキク。
造花ではありません。染色してあります。


 今、もしだれか「連れ」がいたら……。その人はきっと心配したり、混乱するだろう。その人のプランを少しだめにするかもしれない。悪いな、と思うことで、旅の間の望ましい関係、フィフティ・フィフティのバランスが崩れるかも知れない。あるいはこのことを帰国してから、だれかれに、私の本意ではないような感じで話されるに
違いない。
 
   私には、そういうのが一番耐えられないことだ。
     “連れがいなくてよかった”と心底、思った。
       このことの責任は私が一人でとればいいのだから。


 おしゃれな若い人たちが歩いていくのを、ぼんやりと見るともなく眺めながら、ふっと思った。

            『いいなぁ。
         この人たちはみんなお財布や、
          カードを持っているんだ』




 それにしても、警察をみつけないことには、始まらない。
 再び、歩き出そうとして……

     
 マテヨ。

 「今、もし心臓発作とか、くも膜下出血などを起こして、ここで倒れたら、私は身元不明の中年女だ。
何も身元を特定できるものを持っていないのだから、警察も処置に困るだろう。Yoko も Mercia も、大げさに
言えば、世界の誰一人として、私が今ここにいることを知らないのだから」




 
 

  私は、左手の指を一本ずつ折って数え始めた。

ひとつ
白い薄手のコートのポケットには Weekly travel card が入っている。


ふたつ 
私のフラットに置いてあるバッグには、帰りの航空券が入っている。


みっつ 
パスポートのコピーと、必要な写真2枚も持っている。


よっつ  
今、ここに渇きを癒す水を持っている。
部屋には、昨日残した果物やチョコなども
残っている。


いつつ
日本円(4万円足らず)が、スーツケースに入っているので、明日にでも両替できる。当座のお金はそれで、何とかなる。


むっつ
これから6日間、あたたかく清潔に寝泊りできるところがある。

ななつ  
これから帰国までに必要なお金は・・・あしたの夕方、電話をかけてくれる約束のYokoに頼もう。
きっと、何とかしてくれる。


やっつ  
これが一番なのだが、なにより私は、元気だし、怪我もしていない。これからなんとかしなくてはならない「言葉」も多分、何とかなるだろう。
 
 
 もう一つ、付け加えたい
『グリコのおまけ』
 このスリ君(男とは限らないんだけど)は、立派なプロだった。実に上手に pickpocket してくれたので、私は恐怖を感じなかった。おかげでトラウマのようなものが全然残らなかった。

 これはのちのち、実にありがたいことだった。
    (とは言え、この旅の間、もう一度あの Embankment に行く気に 
     は、どうしてもなれなかったけれど)

 数え終わった時、私は空を仰いだ。
  さぁ、こんなところで「まいご」になってる場合じゃない。

 Yoko のくちぐせを借りれば、まったく
『きもちよーく』すべてをなくしたけど、
よれよれの Weekly travel card が、残っている。

          
れで、あの Marble Arch へ帰ろう。
 
          あそこで、 Police Office をさがすのだ。








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